印鑑の話
印鑑の色々なお話

はんこ王国日本の歴史

今から約二八〇年ほど昔、日本の古代史で大きな問題となったひとつの金印を、博多の志賀島で、百姓甚兵衛という人が発見いたしました。
そこには、「漢委奴国王」とういう文字が彫られておりました。
これは仮説ですが、明治の頃日本の学者が解釈した所では委は倭の略画で(やまと=日本)奴は倭(やまと)の国の中の那の国王ということらしく、中国の古い歴史書「後漢書」のなかに「建武中元二年(西暦五七年)倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印緩(いんじゅ)を以てす。」とあり、「光武」とは後漢の皇帝光武帝のことです。
印緩というのは、把手のところに穴があいており、ここに緩(ひも)を通し、腰に下げて使用する印鑑のことです。
その頃の那の国とは九州博多の一帯にあった国だといわれております。
その頃、那の国は邪馬台国の女王卑弥呼に攻め立てられ、博多から海上はるか志賀島に逃れましたが、来てくれるはずだった漢からの援軍が現れず、那の国は滅びてしまったとされております。
ですが、光武帝から贈られた金印はともかく志賀島に渡っていった那国の者の手に入ったらしく、それが、二千年も経ってから畑の中から発見されたわけです。

日本へは聖徳太子が摂政をしていた推古天皇の時代(西暦五九三年〜六二八年) に伝えられてきました。
始めは唐の影響をかなり受けていましたが、その後日本風に工夫をして、制度的に確立されたのは、文武天皇の大宝元年(西暦七〇一年)の頃です。
大宝令・公式令には、内印、外印、諸司印、諸国印の四種類の印が定められました。
大化の改新(西暦六四五年)以後、鈕印(ちゅういん)は朝廷大権のひとつとされ、中央政府及び諸国の印は、朝廷から授けられました。
この結果、捺印のある文書に権威が生じ、印そのものも重んじられるようになり、奈良時代からは社寺の印、郷印など、準公印が盛んになってきました。
この時代には私印は、一般的には認められておりませんでしたが、特に許可をされた者は持つことが出来ました。
この時代に藤原の仲麻呂いう人が、孝謙天皇から「大待」という官職に任命され、同時に「恵美」の姓を賜り「恵美家印」の作印使用が許可され、これが私印の第一号であるだろうと言われております。

平安時代なると、官印の制度がくずれて私文書が盛んになり、花押(日本的サインの代表、印章が一般の人々に普及していなかった時代に文書の真実性を明らかにするために用いた)がどんどん用いられるようになりました。
鎌倉時代になると、宋、元との交流が盛んになり、とくに禅僧によってもたらされた印によって、印材、形状、字体も変化に富むようになり、私印が盛んになり、朱印、墨印がありましたが、大名は朱印を用いることが多くなりました。
花押がすたれて印がこれに代わるようになると、実印、裏印が発達し、特に江戸時代からは印章は一般大衆の間に普及した結果、印 を持っていなければ日常生活にも事欠くようになり、印鑑の必要性と実用性が増大して明治時代に及んでおります。
この社会的要請が明治初年の実印の法制化となります。

明治 三年九月に、一般に苗字が許されて、誰でも姓と名を持ち、自分を表示するようになりました。
更に明治六年七月には「国民相互間の証書には印鑑を用いること」という布告が出て、明治二三年二月、法律第十七号は、各自に実印を定め、市町村役場に「印鑑登録」を行い、法律上の公証力を持たせる定めとなり、現在に至ります。

     
はんこ王国日本の歴史

今から約二八〇年ほど昔、日本の古代史で大きな問題となったひとつの金印を、博多の志賀島で、百姓甚兵衛という人が発見いたしました。
そこには、「漢委奴国王」とういう文字が彫られておりました。
これは仮説ですが、明治の頃日本の学者が解釈した所では委は倭の略画で(やまと=日本)奴は倭(やまと)の国の中の那の国王ということらしく、中国の古い歴史書「後漢書」のなかに「建武中元二年(西暦五七年)倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印緩(いんじゅ)を以てす。」とあり、「光武」とは後漢の皇帝光武帝のことです。
印緩というのは、把手のところに穴があいており、ここに緩(ひも)を通し、腰に下げて使用する印鑑のことです。
その頃の那の国とは九州博多の一帯にあった国だといわれております。
その頃、那の国は邪馬台国の女王卑弥呼に攻め立てられ、博多から海上はるか志賀島に逃れましたが、来てくれるはずだった漢からの援軍が現れず、那の国は滅びてしまったとされております。
ですが、光武帝から贈られた金印はともかく志賀島に渡っていった那国の者の手に入ったらしく、それが、二千年も経ってから畑の中から発見されたわけです。

日本へは聖徳太子が摂政をしていた推古天皇の時代(西暦五九三年〜六二八年) に伝えられてきました。
始めは唐の影響をかなり受けていましたが、その後日本風に工夫をして、制度的に確立されたのは、文武天皇の大宝元年(西暦七〇一年)の頃です。
大宝令・公式令には、内印、外印、諸司印、諸国印の四種類の印が定められました。
大化の改新(西暦六四五年)以後、鈕印(ちゅういん)は朝廷大権のひとつとされ、中央政府及び諸国の印は、朝廷から授けられました。
この結果、捺印のある文書に権威が生じ、印そのものも重んじられるようになり、奈良時代からは社寺の印、郷印など、準公印が盛んになってきました。
この時代には私印は、一般的には認められておりませんでしたが、特に許可をされた者は持つことが出来ました。
この時代に藤原の仲麻呂いう人が、孝謙天皇から「大待」という官職に任命され、同時に「恵美」の姓を賜り「恵美家印」の作印使用が許可され、これが私印の第一号であるだろうと言われております。

平安時代なると、官印の制度がくずれて私文書が盛んになり、花押(日本的サインの代表、印章が一般の人々に普及していなかった時代に文書の真実性を明らかにするために用いた)がどんどん用いられるようになりました。
鎌倉時代になると、宋、元との交流が盛んになり、とくに禅僧によってもたらされた印によって、印材、形状、字体も変化に富むようになり、私印が盛んになり、朱印、墨印がありましたが、大名は朱印を用いることが多くなりました。
花押がすたれて印がこれに代わるようになると、実印、裏印が発達し、特に江戸時代からは印章は一般大衆の間に普及した結果、印 を持っていなければ日常生活にも事欠くようになり、印鑑の必要性と実用性が増大して明治時代に及んでおります。
この社会的要請が明治初年の実印の法制化となります。

明治 三年九月に、一般に苗字が許されて、誰でも姓と名を持ち、自分を表示するようになりました。
更に明治六年七月には「国民相互間の証書には印鑑を用いること」という布告が出て、明治二三年二月、法律第十七号は、各自に実印を定め、市町村役場に「印鑑登録」を行い、法律上の公証力を持たせる定めとなり、現在に至ります。





 

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